犬の甲状腺
生理学から臨床薬理まで
気管に寄り添う小さな一対の腺が、代謝という体全体の「炎」の強さを決めている。解剖・組織学から出発し、ホルモン合成、全身作用、そして臨床で最も遭遇する甲状腺機能低下症の検査と治療まで、犬の甲状腺を一冊で通読できるように構成した。
犬の甲状腺機能低下症は、犬で最も多く診断される内分泌疾患のひとつであり、日常臨床で必ず遭遇する。しかし「TT4が低い=甲状腺機能低下症」ではない。甲状腺ホルモンがどこで、どう作られ、なぜ非甲状腺性疾患で数値が揺れるのかという生理学的な土台があって初めて、検査結果を正しく解釈できる。本書は解剖・組織学 → 生理学 → ホルモンの全身作用 → 病態生理学 → 検査診断 → 薬理学的治療という順で、犬の甲状腺を基礎から臨床までひと続きに解説する。
甲状腺の解剖と組織学
気管に寄り添う位置関係、豊富な血流、そして濾胞というミクロな貯蔵タンクの構造を押さえる。
1-1甲状腺の位置と肉眼解剖
犬の甲状腺(glandula thyroidea)は、喉頭のすぐ尾側、気管の第1〜5気管軟骨輪付近の外側面に位置する左右一対の腺である。色調は暗赤褐色〜赤褐色で、健常な成犬では長さ2〜3cm程度、扁平な卵形〜紡錘形を呈する。左右の葉は気管の両側面に沿うように配置され、腹側正中を横切る峡部(isthmus)によって連結される場合があるが、犬では峡部が線維性の結合組織のみで、実質を欠くか非常に薄いことが多い点が特徴である。
この位置関係は触診の基本でもある。正常な甲状腺は小さく可動性に富むため通常は触知しにくいが、腫大(腫瘍性増殖や慢性甲状腺炎に伴う結節など)があると、頸部腹側の気管に沿ってしこりとして触れることがある。
猫の甲状腺は左右の葉が完全に分離し、峡部を欠くのが通常だが、犬でも峡部の実質はごく乏しいため、画像所見や触診の解釈は「左右2つの独立した小葉」という理解で概ね差し支えない。
1-2血管支配と副甲状腺との関係
甲状腺は単位重量あたりの血流量が体内でも屈指の豊富さを誇る臓器で、頭側甲状腺動脈(総頸動脈の分枝)と、変異の多い尾側甲状腺動脈(鎖骨下動脈または腕頭動脈由来)から二重に灌流を受ける。この豊富な血流は、ヨウ素の取り込みとホルモンの迅速な分泌という機能上の要求を反映している。
外科的に重要なのが副甲状腺(上皮小体)との位置関係である。犬には通常、甲状腺の頭側極付近の被膜表面に位置する外副甲状腺(external parathyroid)と、甲状腺実質内に埋没する内副甲状腺(internal parathyroid)が左右それぞれに存在する(計4腺)。甲状腺摘出術(片葉/両葉)では、この外副甲状腺の血流を温存できるかどうかが、術後の低カルシウム血症のリスクを大きく左右する。
甲状腺癌などで両葉摘出を行う際は、内副甲状腺を含む可能性があるため、術後は数日間にわたり血中カルシウム濃度をモニタリングし、低カルシウム血症(テタニー、振戦、痙攣)の徴候を見逃さないことが重要である。
1-3組織学:濾胞とコロイド
甲状腺実質の基本単位は濾胞(follicle)である。濾胞は単層の濾胞上皮細胞(follicular cell、主細胞)が球状に配列し、その内腔をコロイド(colloid)というゲル状物質が満たす構造をとる。コロイドの主成分はサイログロブリン(thyroglobulin, Tg)というヨウ素化された糖蛋白で、甲状腺ホルモンの「貯蔵形態」として濾胞腔内にストックされている。
濾胞上皮細胞の形態は機能状態を反映して変化する。安静時は立方状(cuboidal)だが、TSH刺激を受けて活動性が高まると円柱状(columnar)に背が高くなり、逆に機能が抑制された状態や萎縮では扁平状(squamous)になる。この形態変化は病理組織診断において甲状腺の活動性を推定する手がかりになる。
1-4C細胞(傍濾胞細胞)とカルシトニン
濾胞上皮細胞に混じって、あるいは濾胞の間隙に、C細胞(傍濾胞細胞、clear cell)と呼ばれる別系統の細胞が散在する。C細胞は神経堤由来(鰓後体、ultimobranchial bodyに由来)の神経内分泌細胞で、ヨウ素代謝には関与せず、代わりにカルシトニンを分泌する。カルシトニンは血中カルシウム濃度が上昇した際に破骨細胞活性を抑制し、骨からのカルシウム動員を減らす方向に働くが、犬におけるカルシウム恒常性への寄与は副甲状腺ホルモンほど大きくないと考えられている。
C細胞は甲状腺の中に存在するが、機能的には「カルシウム代謝系」に属する。甲状腺機能低下症・亢進症の病態はC細胞やカルシトニン分泌とは基本的に独立している、と整理しておくと理解が混乱しない。
甲状腺の生理学
視床下部から末梢組織まで続く調節の連鎖と、ヨウ素からホルモンが作られる5つのステップ。
2-1視床下部・下垂体・甲状腺軸(HPT軸)
甲状腺の活動は、視床下部-下垂体-甲状腺軸(hypothalamic-pituitary-thyroid axis, HPT軸)という階層的な調節系によってコントロールされている。視床下部はTRH(甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン)を分泌し、これが下垂体前葉の甲状腺刺激ホルモン産生細胞(thyrotroph)を刺激してTSH(甲状腺刺激ホルモン、サイロトロピン)の分泌を促す。TSHは血流に乗って甲状腺に到達し、濾胞上皮細胞のTSH受容体に結合することで、ヨウ素の取り込みからホルモン分泌に至る一連の過程すべてを促進する。
分泌されたT4・T3は視床下部と下垂体の両方に作用し、TRHとTSHの分泌を抑制する負のフィードバックをかける。これにより血中甲状腺ホルモン濃度は狭い範囲に維持される。この負のフィードバックの仕組みこそが、原発性甲状腺機能低下症でTSHが上昇する理由であり、第5章の検査診断を理解する土台になる。
2-2ホルモン合成の5段階
甲状腺ホルモンの合成は、濾胞上皮細胞とコロイドの間を行き来する精巧な流れ作業として進む。
2-3T4とT3、末梢での活性化
甲状腺から分泌されるホルモンの大部分はT4(サイロキシン、テトラヨードサイロニン)であり、T3(トリヨードサイロニン)の直接分泌量はごくわずかにとどまる。しかし受容体への結合親和性で見ると、生物学的な活性はT3の方がはるかに高い。この一見矛盾した関係を成立させているのが末梢組織での変換である。
肝臓・腎臓・筋肉などの末梢組織に存在する脱ヨウ素酵素(デヨージナーゼ)が、T4から1つのヨウ素を外して、より活性の高いT3に変換する。循環血中に存在するT3の大部分は、実は甲状腺からの直接分泌ではなく、この末梢での変換に由来する。つまりT4は「プロホルモン(前駆ホルモン)」としての性格が強く、各組織が必要に応じて自らT3を作り出す仕組みになっている。
この末梢変換の仕組みがあるため、血中T3濃度は個体の状態(絶食、重度疾患、ストレスなど)によって変動しやすく、甲状腺自体の機能を直接反映しない。犬の甲状腺機能低下症の診断において血中T3測定の有用性が低いのはこのためである(第5章で詳述)。
2-4血中輸送:結合蛋白と遊離型ホルモン
血中のT4・T3は99%以上が血漿蛋白(甲状腺ホルモン結合グロブリン、トランスサイレチン、アルブミンなど)と結合した状態で存在し、生物学的に活性を持つのは結合を免れたごくわずかな遊離型(フリー体、fT4・fT3)のみである。この「遊離ホルモン仮説」は内分泌学の基本原則であり、細胞に取り込まれて受容体に作用できるのは遊離型ホルモンだけである。
結合蛋白の量や親和性は、他の疾患や薬剤の影響を受けて変動しうる。そのため総ホルモン濃度(TT4など、結合型+遊離型の合計)は、結合蛋白の変動によって「甲状腺自体は正常なのに数値だけ低下する」という現象を起こしやすい。これに対し遊離型ホルモン濃度は結合蛋白の変動の影響を受けにくく、より甲状腺そのものの機能を反映しやすいという特性がある。この違いが、第5章で解説する検査選択の根拠になる。
甲状腺ホルモンの働き
遊離T3が核内受容体に結合し、ほぼ全身の細胞で遺伝子発現を書き換える。その広範な作用を臓器系統別に整理する。
3-1基礎代謝と熱産生
T3は標的細胞の核内に存在する甲状腺ホルモン受容体(TRα・TRβ)に結合し、Na⁺/K⁺-ATPaseやミトコンドリア関連酵素をはじめとする多数の遺伝子発現を調節する。その結果として細胞の酸素消費量とATP産生・消費が高まり、基礎代謝率(BMR)が上昇する。これがいわゆる熱産生効果(カロリジェニック効果)であり、体温維持における甲状腺ホルモンの中心的な役割である。甲状腺機能低下症の犬が寒がりになりやすいのは、この熱産生効果の低下による。
3-2心血管系への作用
甲状腺ホルモンは心拍数と心収縮力を高める方向に働く。心筋細胞のβアドレナリン受容体の発現を増加させることで、カテコラミンに対する感受性を高める「許容作用(permissive action)」もその一因である。そのため甲状腺機能低下症では相対的な徐脈や心収縮力低下がみられ、逆に(犬では稀な)甲状腺機能亢進症では頻脈や高心拍出状態を呈する。
3-3成長・発達・中枢神経系
甲状腺ホルモンは骨格の正常な成長・成熟、そして特に新生子期の中枢神経系の発達に必須である。先天性甲状腺機能低下症の子犬では、成長遅延・骨端線の閉鎖遅延・精神発達の遅れ(いわゆるクレチン様症状)がみられることがあり、早期のホルモン補充が神経学的予後を大きく左右する。成犬においても、神経筋の反射速度や末梢神経伝導速度が甲状腺ホルモンの影響を受けることが知られている。
3-4脂質・糖代謝と皮膚被毛
甲状腺ホルモンは脂質代謝において、LDL受容体の発現を促進して血中コレステロールの肝への取り込み・異化を促す。したがって甲状腺機能低下症では高コレステロール血症・高トリグリセリド血症が高頻度にみられ、これは臨床診断における重要な補助所見のひとつである。糖代謝に関しては、グリコーゲン分解・糖新生を促進する一方、末梢組織でのインスリン感受性にも影響する。
皮膚・被毛においては、甲状腺ホルモンが毛周期の正常な進行と皮脂腺機能を支えている。機能低下症では休止期毛包の割合が増え、被毛の脱毛・粗剛化、皮脂の分泌異常による脂漏性皮膚炎、二次性膿皮症などを起こしやすくなる(第4章で詳述)。
甲状腺の病態生理学
犬の甲状腺疾患の主役は圧倒的に機能低下症である。その大半を占める原発性機能低下症の成り立ちから臨床症状までを整理する。
4-1原発性甲状腺機能低下症
犬の甲状腺機能低下症の95%以上は原発性、すなわち甲状腺自体の実質破壊によるものである。その中心となる病態は次の2つである。
リンパ球性甲状腺炎
リンパ球・形質細胞が甲状腺実質に浸潤し、濾胞を進行性に破壊していく自己免疫性の病態である。サイログロブリンや甲状腺ペルオキシダーゼ(TPO)に対する自己抗体が検出されることが多く、慢性の経過をたどりながら徐々に濾胞が減少し、最終的に臨床的な機能低下症として顕在化する。犬の甲状腺機能低下症における最も一般的な基礎病変と考えられている。
特発性濾胞萎縮
炎症細胞浸潤を伴わずに、甲状腺実質が脂肪組織・線維性結合組織へ置き換わっていく病態である。リンパ球性甲状腺炎の終末像なのか、独立した病態なのかは明確に区別されていない。
| 好発犬種の例 | 好発年齢 | 備考 |
|---|---|---|
| ゴールデン・レトリーバー | 4〜10歳 | 報告数の多い代表的犬種 |
| ドーベルマン・ピンシャー | 4〜10歳 | 拡張型心筋症との合併に注意 |
| アイリッシュ・セター | 中年齢 | ― |
| ミニチュア・シュナウザー | 中年齢 | 高脂血症との鑑別に留意 |
| コッカー・スパニエル | 中年齢 | 外耳炎・皮膚症状を伴いやすい |
中型〜大型犬、中年〜高齢(おおむね4〜10歳)という年齢・体格の傾向は、鑑別診断の優先順位を組み立てるうえで有用な手がかりになる。ただし小型犬や若齢犬での発症も否定はできない。
4-2続発性・先天性甲状腺機能低下症
続発性甲状腺機能低下症は、下垂体からのTSH分泌不全によって生じる。下垂体腫瘍(TSH産生細胞以外の腫瘍による圧迫破壊を含む)や、先天性の下垂体形成不全(下垂体性小人症の原因としても知られる)が背景になりうるが、犬の甲状腺機能低下症全体に占める割合は5%未満とごくわずかである。視床下部性(三次性)の機能低下症はさらに稀で、臨床報告はほとんど存在しない。
先天性甲状腺機能低下症は、ホルモン合成経路の酵素欠損(dyshormonogenesis)や甲状腺の形成異常(甲状腺発生不全)により、出生時からホルモン産生が不足する病態である。成長遅延や骨端線閉鎖の遅れによる不釣り合いな小型化、精神発達の遅延といった、いわゆるクレチン様の症状を呈する。早期診断・早期の補充療法開始が神経学的予後を大きく左右するため、成長不良の子犬を診た際には鑑別に挙げる価値がある。
4-3臨床症状
甲状腺機能低下症の臨床症状は非特異的なものが多く、単独では確定診断の根拠にならない。しかし複数の所見が重なったとき、疑いの精度は大きく高まる。
| 系統 | 主な所見 |
|---|---|
| 全身・行動 | 元気消失、活動性低下、食欲は不変〜軽度増加のまま体重増加、寒がり |
| 皮膚・被毛 | 体幹部の左右対称性脱毛、尾の被毛脱落(rat tail)、粘液水腫による顔貌の変化(tragic expression)、色素沈着、脂漏性皮膚炎、再発性膿皮症 |
| 心血管 | 相対的徐脈、心収縮力低下 |
| 血液・生化学 | 高コレステロール血症、高トリグリセリド血症、軽度の非再生性貧血(正球性正色素性が多い) |
| 生殖 | 発情周期異常、繁殖性の低下 |
| 神経筋(まれ) | 末梢神経障害、顔面神経麻痺、前庭症状、巨大食道 |
| 重症・稀 | 粘液水腫昏睡(myxedema coma):低体温・意識障害を伴う内科的緊急疾患 |
これらの症状はいずれも他の内分泌疾患(副腎皮質機能亢進症など)や皮膚疾患単独でも起こりうる非特異的所見である。臨床症状はあくまで「甲状腺機能低下症を疑うきっかけ」であり、確定には第5章で解説する検査の組み合わせが必要になる。
4-4犬の甲状腺機能亢進症(参考)
猫では甲状腺の良性過形成(腺腫様過形成)による甲状腺機能亢進症が高齢猫の代表的な内分泌疾患であるのに対し、犬における甲状腺機能亢進症は非常に稀である。犬で機能亢進症がみられる場合、その大半は機能性甲状腺癌によるものであり、良性の過形成性変化はほとんど関与しない。臨床症状は猫の機能亢進症と同様に、良好な食欲にもかかわらず体重減少、頻脈、多飲多尿、活動性の亢進などがみられる。
犬で頸部腹側に触知可能な腫瘤があり、かつ甲状腺機能亢進を示唆する症状を伴う場合は、良性疾患よりも先に甲状腺癌を鑑別に挙げる必要がある。画像診断(超音波検査、CT)による周囲組織への浸潤や転移の評価が重要になる。
甲状腺機能低下症の検査・診断
「TT4が低い」だけでは診断にならない。検査の特性を理解し、非甲状腺性疾患との鑑別を組み込んだ診断手順を身につける。
5-1総T4(TT4)によるスクリーニング
総T4(TT4)は結合型・遊離型を合わせた血中T4の総量を測定する検査で、甲状腺機能低下症のスクリーニングとして最初に用いられる。感度は高く、TT4が基準範囲内であれば甲状腺機能低下症の可能性はかなり低いと判断できる。しかし特異度は低く、甲状腺自体は正常であっても他の要因でTT4が低下する例が非常に多い点が最大の弱点である。
| TT4を低下させうる要因 | 備考 |
|---|---|
| 非甲状腺性疾患(NTIS) | 重度の全身性疾患そのものがTT4を抑制する(下記5-4参照) |
| グルココルチコイド | 内因性・外因性を問わず抑制的に働く |
| フェノバルビタール | 肝代謝亢進によりT4クリアランスを促進 |
| サルファ剤(ST合剤など) | 甲状腺ホルモン合成・分泌を抑制しうる |
| 犬種差(サイトハウンド) | グレイハウンドなどは基準範囲自体が低めに設定される |
併発疾患や投薬歴を確認せずにTT4単独で甲状腺機能低下症と診断すると、過剰診断・不要な生涯投薬につながりかねない。TT4はあくまで「除外に強く、確定には弱い」検査と位置づける。
5-2遊離T4(fT4 ED法)とcTSH
平衡透析法による遊離T4測定(fT4 by equilibrium dialysis, fT4-ED)は、結合蛋白の変動の影響を受けにくく、TT4よりも甲状腺自体の機能を反映しやすい検査である。ただし重度の非甲状腺性疾患ではfT4-EDもある程度低下しうるため、万能ではない。
内因性TSH(cTSH)は、原発性甲状腺機能低下症においてネガティブフィードバックが外れることで上昇する。理論的には最も理にかなった検査だが、実際には甲状腺機能低下症の犬の20〜40%程度でcTSHが基準範囲内にとどまるとされ、単独での感度は十分ではない。TT4・fT4-ED・cTSHの3者を組み合わせて解釈することが、現在最も信頼性の高いアプローチとされる。
| TT4 | fT4(ED) | cTSH | 解釈 |
|---|---|---|---|
| 低 | 低 | 高 | 原発性甲状腺機能低下症を強く支持 |
| 低 | 低〜正常 | 正常 | 甲状腺機能低下症は否定できず、臨床症状・経過で判断。NTISとの鑑別が鍵 |
| 低 | 正常 | 正常 | 非甲状腺性疾患による低下の可能性が高い |
| 正常 | 正常 | 正常 | 甲状腺機能低下症の可能性は低い |
5-3甲状腺自己抗体(TgAA)
抗サイログロブリン抗体(TgAA)は、リンパ球性甲状腺炎という自己免疫プロセスの存在を示すマーカーである。重要なのは、TgAA陽性がただちに「機能低下症である」ことを意味しない点である。甲状腺炎の早期段階では、ホルモン産生能がまだ保たれた甲状腺機能正常(ユーサイロイド)の状態でTgAAのみが陽性になることがある。そのためTgAAは確定診断そのものというより、将来の機能低下症発症リスクの評価や、繁殖プログラムにおけるスクリーニングに用いられることが多い。
5-4非甲状腺性疾患と診断アルゴリズム
非甲状腺性疾患症候群(NTIS、ユーサイロイドシックシンドローム)とは、甲状腺自体は正常であるにもかかわらず、重度の全身性疾患・侵襲・絶食などのストレス下で血中甲状腺ホルモン値(特にTT4、T3)が低下する現象である。末梢での脱ヨウ素酵素活性の変化や結合蛋白の変動が関与すると考えられている。臨床の現場では、甲状腺機能低下症が疑われる犬の多くが同時に何らかの併発疾患を抱えているため、この鑑別は極めて重要である。
TSH刺激試験(外因性TSH投与前後のT4変化を見る検査)はかつてのゴールド・スタンダードだったが、組換えヒトTSH製剤の入手性・コストの問題から現在の一般臨床ではほとんど行われない。TRH刺激試験も副作用や結果の不安定さから広くは推奨されていない。
可能であれば、併発疾患の治療・安定化後に甲状腺機能検査を行う、あるいは複数時点で再検査することが望ましい。急性期の重症患者でのTT4単独低値をもって生涯にわたるレボチロキシン投与を開始することは避けるべきである。
甲状腺機能低下症の薬理学的治療
レボチロキシンによる生涯にわたるホルモン補充療法。開始量よりも、モニタリングを通じた個体最適化のプロセスが治療の本体である。
6-1レボチロキシンによる補充療法
犬の甲状腺機能低下症の治療は、合成T4製剤であるレボチロキシンナトリウム(L-サイロキシン)の経口補充が第一選択であり、ほぼ唯一の治療法である。T4は末梢組織で自律的にT3へ変換されるため(第2章2-3参照)、多くの場合T4単剤の補充で全身の甲状腺ホルモン需要をまかなうことができる。
一般的な開始用量は体重あたり0.02mg/kg(20μg/kg)を1日2回経口投与とする体重ベースの処方が広く用いられてきたが、大型犬・超大型犬では体重換算量が過剰になりやすいため体表面積(BSA)に基づく処方が提案されることもある。いずれにしても、これは出発点としての目安であり、実際の投与量は現行の製剤添付文書・最新のフォーミュラリーと、個々の患犬の体重・臨床反応・併発疾患を踏まえて決定・調整されるべきものである。
1日2回投与で安定した後、臨床症状とモニタリング値が良好であれば1日1回投与への移行を試みる報告もあるが、個体差が大きく、移行の可否は経過を見ながら判断する。
6-2モニタリングと用量調節
投与開始または用量変更からおおむね4〜8週後に、血中T4濃度を測定して用量を評価する。このとき重要なのが採血タイミングである。投与後4〜6時間の「ピーク値」と、次回投与直前の「トラフ値」をあわせて評価することで、ホルモン濃度の日内変動の中でどこに位置しているかを把握できる。一般に、ピーク値が基準範囲の中央〜やや上方に収まることを目標とすることが多い。
6-3副作用と薬物相互作用
過剰投与(医原性甲状腺機能亢進症)の徴候としては、多飲多尿、体重減少、そわそわとした落ち着きのなさ、パンティング、頻脈などが挙げられる。これらが認められた場合は速やかに減量を検討する。
| 相互作用の相手 | 影響 |
|---|---|
| スクラルファート、コレスチラミン | 消化管内でレボチロキシンと結合し、吸収を低下させうる。投与時間をずらす配慮が必要 |
| 制酸剤(プロトンポンプ阻害薬など) | 胃内pHの変化を介して吸収に影響する可能性がある |
| フェノバルビタール | 肝薬物代謝酵素の誘導によりT4のクリアランスが亢進し、実効的な必要量が増える場合がある |
| 食事内容・給餌タイミング | 吸収量に影響しうるため、毎回できるだけ同じ条件(空腹時など)で投与すると安定しやすい |
併用薬の追加・中止があった際は、T4の吸収・代謝に影響しうることを念頭に置き、必要に応じて早めに甲状腺ホルモン値を再評価する。
6-4治療の見通しと生涯管理
先天性や一過性の原因を除き、犬の甲状腺機能低下症の治療は基本的に生涯にわたって継続する補充療法である。用量変更を行った際は4〜8週後に再評価し、安定が確認できるまでこのサイクルを繰り返す。いったん安定した用量が定まれば、その後は年1〜2回程度の定期モニタリングで管理できることが多い。
ごく稀ではあるが、未治療または重度の甲状腺機能低下症が進行すると、低体温・意識障害を伴う粘液水腫昏睡という内科的緊急疾患に至ることがある。これは静脈内投与を含む積極的なホルモン補充と全身管理を要する重篤な病態であり、慢性の甲状腺機能低下症であっても軽視すべきではない理由のひとつである。
本章で示した用量や間隔はあくまで教育目的の一般的な目安であり、実際の処方は必ず現行の製剤添付文書・最新のフォーミュラリー、および患犬ごとの臨床状態に基づいて決定すること。