まず「IBD」という言葉が指すものを正確に定義し、慢性腸症全体の分類地図の中に位置づける。
「IBD」(Inflammatory Bowel Disease、炎症性腸疾患)という語は、もともと3週間以上持続する慢性的な消化器症状(嘔吐・下痢・体重減少・食欲不振など)を示し、寄生虫感染や食事性、代謝性、腫瘍性などの既知の原因が除外され、かつ内視鏡または開腹生検によって腸粘膜に組織学的な炎症所見が確認された症例に対して用いられてきた、いわば除外診断名です。
しかし近年、獣医内科学の分野では「IBD」という単一の病名よりも、慢性炎症性腸症(CIE:Chronic Inflammatory Enteropathy)という、より広い傘概念(アンブレラターム)を用いることが標準になりつつあります。これは、同じ「腸に炎症がある犬」であっても、治療への反応性がまったく異なる複数のサブグループが存在することがわかってきたためです。
慢性腸症(CE:Chronic Enteropathy):3週間以上続く消化器症状を示す状態全般を指す最も広い語。
慢性炎症性腸症(CIE):慢性腸症のうち、腫瘍性・感染性・膵疾患・内分泌疾患などを除外した上で残る一群。治療反応性によってさらに細分される。
IBD(狭義):CIEの中でも、食事療法・抗菌薬療法に反応せず、免疫抑制療法を必要とし、かつ組織学的に粘膜炎症が確認された群を指すことが多い(本書では便宜上、慢性腸症全体を扱いながら、狭義のIBDが治療の主役になる場面を中心に解説します)。
慢性炎症性腸症は中年齢の犬に多く発症しますが、若齢から高齢まで幅広く報告されます。特定の犬種で発症リスクや病型に偏りが見られることが知られており、鑑別診断や病型推定のヒントになります。
こうした犬種傾向はあくまで統計的な偏りであり、診断を犬種だけで決定してはいけません。しかし、症状の重さや治療反応性を予測するうえで有用な背景情報になります。
現在広く使われている考え方は、慢性腸症を「治療トライアルへの反応性」によって振り分けるという、臨床的にきわめて実用的な分類です。診断名を確定させてから治療を始めるのではなく、段階的な治療トライアルそのものが診断のプロセスを兼ねるという発想が特徴です。
さらに、この4分類とは独立した「重症度の軸」として蛋白漏出性腸症(PLE)があります。PLEはFRE・ARE・IRE・NREのどの群でも起こりうる、腸管からの蛋白喪失を特徴とする重篤な病態で、予後を左右する重要な分岐点になるため、本書では第8章で独立して扱います。
初診時に「この犬はIBDです」と断定できることはほとんどありません。まず寄生虫・食事・感染・膵疾患・内分泌疾患などを除外し(第5章)、食事トライアルから始める段階的アプローチ(第6章)を経て、最終的に内視鏡生検で組織学的診断を確定する(第4章・第7章)という流れを理解することが、この分野を学ぶ最初の一歩です。
発症メカニズムを理解するための前提として、正常な腸管免疫のしくみを押さえる。
腸管は体表面積の大部分を占める最大の免疫器官であり、常に大量の食事抗原と腸内細菌にさらされています。この環境で「有害なものだけを排除し、無害なものには反応しない」という高度な選別を担うのが腸管関連リンパ組織(GALT)です。
健康な状態では、これらの組織は病原体には炎症性の応答を、食事抗原や常在細菌には寛容的な応答を選択的に示します。IBDの本質は、この「選別能力」が破綻することにあります。
腸管上皮は単層の細胞シートでありながら、管腔内の細菌・毒素・未消化抗原を体内から隔てる物理的バリアとして機能します。このバリアは大きく3つの要素からなります。
杯細胞(ゴブレット細胞)が分泌するムチン(主にMUC2)が形成する層で、細菌が上皮に直接接触するのを防ぐ第一線です。健康な小腸・大腸では、内側の密な層と外側の緩い層の二層構造を取り、内層はほぼ無菌に保たれます。
隣接する上皮細胞どうしを密に結合させる構造で、オクルディンやクローディンなどの膜蛋白質が関与します。この結合が緩むと、本来通過できない大きさの抗原や細菌成分が細胞間隙を通って粘膜固有層に侵入しやすくなります。これがいわゆる「リーキーガット(腸管透過性亢進)」です。
抗菌ペプチド(ディフェンシンなど)の分泌、分泌型IgAの管腔側への輸送、パターン認識受容体(TLRやNODファミリー)を介した細菌シグナルの感知など、上皮細胞は単なる「壁」ではなく能動的な免疫の担い手でもあります。
健康な腸管では、食事抗原や常在細菌に対して積極的に「反応しない」状態を作り出しています。これを経口免疫寛容と呼びます。
粘膜樹状細胞は管腔内抗原を取り込むと、炎症性ではなく制御性の性質を持つ形でT細胞に提示し、制御性T細胞(Treg)の分化を誘導します。Tregは抗炎症性サイトカインであるIL-10やTGF-βを分泌し、周囲のエフェクターT細胞の過剰な活性化を抑制します。この仕組みにより、腸管は病原体には反応しつつ、日々摂取する食物蛋白や共生細菌には反応しないという、絶妙なバランスを保っています。
IBDの発症メカニズムは、次章で述べる「バリア」「細菌叢」「免疫寛容」という3つの要素のいずれか、あるいは複数が同時に破綻することで説明されます。本章で扱った正常機能は、いわば病態を理解するための基準線(ベースライン)です。
犬の腸内細菌叢は数百種類の細菌からなり、宿主の免疫系と共進化してきた「もう一つの臓器」とも言われます。健康な腸内細菌叢は短鎖脂肪酸(酪酸など)を産生して上皮細胞のエネルギー源となり、病原性細菌の定着を競合的に阻害し、Tregの分化を促進するなど、宿主の恒常性維持に積極的に貢献しています。
一方で、抗菌薬投与、食事内容の急激な変化、消化管運動の異常などによってこのバランスが崩れると、細菌叢の多様性が低下し、特定の菌群(プロテオバクテリア門など)が優勢になることがあります。この状態は次章で扱うディスバイオシス(Dysbiosis)と呼ばれ、IBDの発症・維持に深く関わっています。
IBDは単一の原因では説明できない、複数の要因が悪循環を形成する多因子性疾患である。
犬のIBDは、単一の原因菌や単一の遺伝子異常によって説明できる疾患ではありません。現在最も支持されている考え方は、①遺伝的素因、②腸管上皮バリアの機能不全、③腸内細菌叢の異常(ディスバイオシス)、④粘膜免疫寛容の破綻、という複数の要素が相互に作用し合い、一度成立すると自己増幅的な悪循環(vicious cycle)を形成するというものです。
特定犬種における発症率の偏りは、遺伝的背景の関与を強く示唆します。ジャーマン・シェパードでは、細菌成分を認識するパターン認識受容体(TLR)や、細胞内で細菌ペプチドグリカンを感知するNOD2関連経路の遺伝子多型が、腸管透過性亢進や免疫応答の異常と関連づけられて報告されています。
ヒトのクローン病・潰瘍性大腸炎でも同様に、自然免疫の受容体や上皮バリア関連遺伝子の多型が疾患感受性と関連することが知られており、犬のIBDはヒトIBDと病態生理を部分的に共有する「自然発症動物モデル」としても注目されています。ただし、単一遺伝子疾患のように特定の遺伝子変異だけで発症が説明できるわけではなく、複数の遺伝的素因が環境因子と組み合わさって初めて発症に至ると考えられています。
IBD罹患犬の腸粘膜では、タイトジャンクション構成蛋白の発現低下や粘液層の菲薄化・組成の変化が報告されています。バリア機能が低下すると、本来であれば上皮を通過できないはずの細菌成分(リポ多糖など)や未消化の食事抗原が粘膜固有層に侵入しやすくなり、免疫細胞を持続的に刺激する引き金になります。
重要なのは、この関係が一方向ではないという点です。粘膜固有層で産生される炎症性サイトカイン(TNF-αなど)自体が、タイトジャンクションをさらに緩め、上皮細胞のアポトーシスを促進することが知られています。つまり「バリア破綻が炎症を招き、炎症がさらにバリアを破壊する」という自己増幅的な回路が成立し、これが図3-1に示した悪循環の起点になります。
慢性腸症の犬では、健康犬と比較して腸内細菌叢の多様性が低下し、酪酸産生菌を含むファーミキューテス門の菌群が減少する一方、大腸菌をはじめとするプロテオバクテリア門が相対的に増加するパターンがしばしば観察されます。この変化は原因であると同時に結果でもあり、炎症環境そのものが細菌叢組成を変化させる方向にも働きます。
便中細菌のリアルタイムPCRによる定量パネルをもとに、複数の主要な菌群の変化を統合して単一のスコアとして算出する指標です。数値がマイナス側に大きいほど正常な細菌叢組成に近く、プラス側に大きいほどディスバイオシスが強いことを示します。診断を単独で確定するものではありませんが、細菌叢の乱れを客観的に追跡する補助的な検査として利用されます(第7章で扱います)。
正常な腸管では制御性T細胞(Treg)が優位に働き、過剰な免疫応答にブレーキをかけています。IBDではこのバランスが崩れ、炎症性のエフェクターT細胞、特にIFN-γを産生するTh1細胞やIL-17を産生するTh17細胞が優位になることが報告されています。これらのサイトカインは上皮細胞の傷害を促進し、さらに好中球やマクロファージを粘膜へ動員することで、局所の炎症を増幅させます。
なぜTreg優位からTh1/Th17優位へと傾くのか、その引き金は単一ではありません。ディスバイオシスによって特定の刺激性の強い細菌抗原が増えること、上皮バリア破綻によって抗原量そのものが増大すること、遺伝的素因によって樹状細胞の応答性が変化していることなど、これまで述べてきた要素すべてが関与しうると考えられています。
食事中の蛋白質は、量的にも質的にも腸管免疫系への最大の抗原負荷源です。特定の蛋白源に対する感作が疑われる症例が多いことは、新奇蛋白食や加水分解食への切り替えのみで症状が改善する「食事反応性腸症(FRE)」が慢性腸症の中で最多を占めるという臨床データからも裏づけられます(第1章)。
このほか、非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)などの薬剤性の粘膜傷害、寄生虫感染や急性感染性腸炎の既往、ストレスによる消化管運動異常なども、バリア機能や細菌叢に影響を与え、悪循環の引き金となりうる環境因子として位置づけられます。
IBDの確定診断は組織学的評価に依存する。生検の取り方から評価基準、代表的な病型までを整理する。
慢性腸症の組織学的診断は、内視鏡による粘膜生検が第一選択です。粘膜生検は低侵襲である一方、粘膜固有層より深部(粘膜下層・筋層)の病変や、限局性・腫瘍性病変を見逃す可能性があるため、超音波検査で層構造の消失や腫瘤性病変が疑われる場合には、開腹による全層生検が選択されます。
かつては病理医によって評価基準や用語がまちまちで、施設間・病理医間での診断の一致率が低いことが課題でした。この問題を解決するため、世界小動物獣医師会(WSAVA)消化器標準化グループは、胃・十二指腸・回腸・結腸それぞれについて、標準化された組織評価テンプレートを策定しました。
このテンプレートでは、①粘膜の構造(絨毛萎縮、陰窩拡張、線維化など)、②上皮の傷害(上皮内リンパ球の増加、杯細胞減少、びらんなど)、③炎症細胞浸潤(リンパ球・形質細胞、好酸球、好中球、マクロファージそれぞれの密度)という3つの軸を、正常・軽度・中等度・高度の4段階で評価します。
健常犬の腸粘膜にも一定数のリンパ球・形質細胞は常在しており、「炎症細胞が存在する」こと自体は異常ではありません。診断上重要なのは、その密度が正常範囲を超えているか、および粘膜構造の異常を伴っているかです。この基準を用いても、組織学的重症度と臨床症状の重症度は必ずしも一致しないことが報告されており、病理診断はあくまで臨床所見・検査所見と統合して解釈する必要があります。
慢性腸症の中で最も頻度が高い組織学的病型です。粘膜固有層にリンパ球と形質細胞を主体とする浸潤を認め、しばしば絨毛萎縮や陰窩の変化を伴います。臨床的には「狭義のIBD(IRE)」として免疫抑制療法の対象になることが多い病型です。
好酸球を主体とする浸潤を特徴とします。診断にあたっては、寄生虫感染、食物有害反応(アレルギー)、まれに好酸球性硬化性線維増殖症や好酸球増多症候群など、好酸球浸潤を来す他の病態を除外する必要があります。末梢血の好酸球数は必ずしも増加せず、末梢血好酸球数の正常値が組織内好酸球浸潤を否定する根拠にはならない点に注意が必要です。
主にボクサーやフレンチ・ブルドッグなど若齢の犬に見られる特殊な病型で、PAS染色陽性のマクロファージが粘膜固有層に集簇するのが特徴です。近年、この病型の多くで接着侵入性大腸菌(AIEC)が粘膜内マクロファージ内から検出されることが分かり、蛍光in situハイブリダイゼーション(FISH)法による菌の証明が診断の一助となります。
肉芽腫性大腸炎は、他の組織学的病型とは異なり免疫抑制療法ではなくエンロフロキサシンなどの抗菌薬療法が第一選択となります。細菌の関与を念頭に置かずに通常のIBDと同様にステロイドで治療すると、症状が悪化する可能性があるため、若齢の好発犬種で大腸炎症状を示す場合には、この病型を鑑別に挙げることが重要です。
組織学的評価では、絨毛の萎縮・癒着、陰窩の拡張や膿瘍形成、粘膜固有層の線維化、リンパ管拡張の有無なども併せて記載されます。特に乳び管(リンパ管)拡張の所見は、後述する蛋白漏出性腸症(PLE、第8章)と関連が深く、予後を左右する重要な所見です。
繰り返しになりますが、組織学的重症度スコアは臨床的な重症度(食欲・体重減少・低アルブミン血症の有無など)と相関しないことが複数の研究で示されています。したがって、次章で扱う臨床活動性スコア(CIBDAI/CCECAI)による評価と、組織学的評価は、互いに補完し合う別の軸として理解することが大切です。
IBDに特異的な症状は存在しない。だからこそ、丁寧な除外診断のプロセスが不可欠になる。
慢性腸症の臨床像は、病変の主座が小腸か大腸かによって傾向が異なります。
いずれの場合も、症状が3週間以上持続または再発を繰り返すことが「慢性」の目安とされます。急性の消化器症状のみを呈する症例は、通常はIBDの評価対象にはなりません。
症状を主観的に「軽い/重い」と表現するのではなく、再現性のある形で数値化するために、CIBDAI(犬IBD活動性指数)と、それを拡張したCCECAI(犬慢性腸症臨床活動性指数)という2つのスコアリングシステムが用いられます。
CIBDAIは、食欲・嘔吐・便性状・排便回数・体重減少という5つの項目をそれぞれ0〜3点で評価し、合計点によって臨床的寛解〜重度の活動性に分類します。CCECAIはこれに加えて、血清アルブミン値、腹水・浮腫の有無、末梢性浮腫といったPLEに関連する項目を組み込むことで、より重症度の高い症例の評価にも対応できるよう拡張されています。
これらのスコアは診断そのものには使いませんが、治療開始前後で同じ基準で症状を追跡できるという点で非常に実用的です。初診時にスコアを記録しておくことで、治療トライアルへの反応性を客観的に判定でき、第6章で扱う段階的診断アプローチの精度が高まります。
「IBD」は除外診断であるという原則を思い出してください。慢性の消化器症状を示す犬では、少なくとも以下のカテゴリーを系統的に検討する必要があります。
上記の鑑別診断を一つずつ検査で除外し、かつ食事・抗菌薬トライアルにも反応しなかった場合に初めて、内視鏡生検による組織学的評価へと進み、狭義のIBD(IRE)という診断に至ります。このプロセスを飛ばしていきなり免疫抑制療法を開始することは、腫瘍性疾患や感染性疾患を悪化させるリスクを伴うため避けるべきです。次章では、この段階的な診断アプローチを具体的な手順として整理します。
「治療トライアルが診断を兼ねる」段階的アプローチを、実際の臨床の流れとして組み立てる。
第1章・第5章で述べた考え方を、実際の診療の流れとして整理すると以下のようになります。それぞれの段階で「反応するかどうか」を確認しながら進めることがこのアプローチの核心です。
除去食トライアルは、診断的アプローチの中で最も重要かつ最初に行うべきステップです。これまでに給餌したことのない蛋白源を用いる新奇蛋白食、または蛋白質を小さなペプチドにまで加水分解して抗原性を低下させた加水分解食のいずれかを、期間中は他のフードやおやつを一切与えずに厳密に実施します。
期間は最低2週間、できれば4週間を目安とする。改善が乏しい場合、蛋白源を変えて再トライアルすることも選択肢になる。飼い主への説明では「一口のおやつ・調味料付きの投薬用おやつも中止する」ことの重要性を具体的に伝える必要がある。
かつては慢性腸症の治療トライアルにおいて、食事トライアルの次に抗菌薬トライアル(メトロニダゾールなど)を行うことが一般的でした。しかし近年、抗菌薬は腸内細菌叢の多様性を大きく低下させ、ディスバイオシスを助長する可能性があることが分かってきており、安易な抗菌薬トライアルは推奨されない方向に変化しています。
現在では、抗菌薬トライアルは、大腸型の症状で細菌の関与が強く疑われる場合や、肉芽腫性大腸炎が鑑別に挙がる場合など、対象を絞って行うことが望ましいとされます。単に「反応するかどうか試す」目的での長期投与は避け、詳細は第9章で扱います。
食事トライアルに反応しない、あるいは低アルブミン血症・体重減少が顕著など重症度が高い症例では、早期に内視鏡検査に進む判断も必要です。特に以下のような場合は、トライアルを長引かせずに画像検査・内視鏡検査を優先します。
それぞれの検査が「何を見ているのか」「何を除外するためのものか」を目的別に整理する。
血液検査単独でIBDを診断することはできませんが、重症度評価と鑑別診断の両方に不可欠です。CBCでは慢性炎症に伴う軽度の非再生性貧血や、好酸球性腸炎における好酸球増多(必発ではない)を確認します。生化学検査では、総蛋白・アルブミン・グロブリンの値がPLEの評価に直結するため特に重要です。
血清コバラミン(ビタミンB12)は回腸で、葉酸は主に空腸で吸収されます。したがって、この2つの値は腸管の部位別機能を推定する間接的な指標として利用されます。
コバラミン欠乏は、それ自体が腸上皮の代謝・再生を障害し、消化器症状を悪化させる悪循環を作ります。低値が確認された場合は、原疾患の治療と並行して非経口(皮下注射)補充を行うことが推奨されます(第9章)。近年は経口製剤の有効性を示すデータも増えています。
消化器症状は膵疾患でも共通して見られるため、慢性腸症の鑑別診断において膵臓の評価は欠かせません。cPLI(犬膵特異的リパーゼ)は膵炎のスクリーニングに、cTLI(犬トリプシン様免疫活性)は外分泌膵機能不全(EPI)のスクリーニングに用いられます。
EPIは体重減少・軟便・多食といった症状がIBDと類似するため、特に大型犬種や若齢での発症が疑われる場合には、鑑別としてcTLIの測定を検討します。EPIとIBDが併存することもあるため、一方が確認されても他方を完全に除外したことにはならない点に留意します。
寄生虫検査は、直接塗抹に加えて遠心浮遊法を用い、複数日にわたって(一般的には3日分をまとめる、または複数回に分けて)実施することで検出感度を高めます。ジアルジアは糞便中への嚢子排出が間欠的であるため、抗原検査(ELISA)やPCR検査の併用が有用です。
細菌培養は、健常犬でも多様な細菌が常在するため、単純な培養結果の解釈は困難です。近年は、便中の主要な細菌群をリアルタイムPCRで定量し、統合スコアとして算出するDysbiosis Index(DI)が、細菌叢の乱れを客観的に評価する補助検査として利用されています。これは確定診断のための検査ではなく、細菌叢の状態を経時的に追跡し、治療効果をモニタリングする目的で活用されます。
腹部超音波検査は非侵襲的に腸管壁の層構造、壁厚、腸間膜リンパ節、腹水の有無を評価できる、慢性腸症診療における中心的な画像検査です。
CT検査は、超音波検査で評価が困難な症例や、より広範な病変の広がり・転移検索が必要な場合の補助的な選択肢として位置づけられます。
内視鏡検査では、胃・十二指腸に加え、可能な限り回腸まで内視鏡を挿入する回腸鏡、および結腸鏡を組み合わせることで、病変分布の全体像を把握します。肉眼的には、粘膜の顆粒状変化、易出血性、びらん、リンパ管拡張を示唆する白色斑などが観察されますが、肉眼所見が正常に見えても組織学的には炎症が存在することが少なくないため、肉眼的評価だけで生検を省略してはいけません。
採取した生検材料は、第4章で述べたWSAVA標準化テンプレートに沿って評価されます。診断の質は生検の採取部位・個数・取り扱いに大きく左右されるため、内視鏡検査そのものの技術だけでなく、生検材料の適切なハンドリングが診断精度を左右することを理解しておく必要があります。
慢性腸症のどの病型からも起こりうる、予後を左右する重症化の分岐点。
蛋白漏出性腸症(PLE)は特定の病型ではなく、腸管からの血漿蛋白の喪失が、肝臓での産生能力を上回った結果として生じる病態(症候群)です。第1章で述べたFRE・ARE・IRE・NREのいずれの経過中にも起こりえますが、特に重度のリンパ球形質細胞性腸炎や、乳び管(腸リンパ管)拡張症を伴う症例で高頻度に見られます。
腸リンパ管拡張症は、腸間膜リンパ管の閉塞や炎症により乳び管が拡張し、蛋白質だけでなくリンパ球や脂質(カイロミクロン)も腸管内腔へ漏出する病態です。原発性(先天性)のこともありますが、IBDに続発する二次性の乳び管拡張症も多く報告されており、ヨークシャー・テリアやソフトコーテッド・ウィートン・テリアでの好発が知られています。
アルブミンは血漿膠質浸透圧を維持する主要な蛋白質です。腸管からの喪失が続き、肝臓での代償的産生が追いつかなくなると血清アルブミン値が低下し、血管内に水分を保持できなくなることで、末梢性浮腫・腹水・まれに胸水が生じます。臨床的には、削痩した犬の腹部だけが膨隆して見える、いわゆる「痩せているのにお腹だけ膨れている」外観が特徴的な所見となることがあります。
腹水や浮腫が明らかになる前の段階でも、血清アルブミン値のわずかな低下傾向を追跡することが早期発見につながります。生化学検査でアルブミン・グロブリンがともに低下している場合は、腎性喪失(蛋白漏出性腎症)や肝不全との鑑別も並行して進める必要があります。
PLEでは、アルブミンとともに抗凝固因子であるアンチトロンビンも腸管から喪失する一方、分子量の大きい凝固因子は相対的に温存されるため、血液は過凝固傾向に傾きます。これに全身性の炎症、安静による血流うっ滞などが加わることで、肺血栓塞栓症をはじめとする血栓塞栓性合併症のリスクが高まります。急な呼吸困難や虚脱を示した場合には、この合併症を念頭に置いた迅速な評価が必要です。
PLEは慢性腸症の中でも予後が厳しいことで知られ、特に以下の所見は不良な転帰と関連することが報告されています。
一方で、近年の複数免疫抑制薬併用プロトコルの発展により、以前は極めて予後不良とされていた重症PLE症例でも、寛解に至る例が報告されるようになってきました。次章では、こうした薬物療法の実際について扱います。
食事療法から免疫抑制療法まで、段階的に積み上げる治療戦略とそれぞれの薬理学的根拠。
慢性腸症の治療は、最も副作用が少なく侵襲性の低い介入から始め、反応が乏しい場合に段階的により強力な治療へ移行する「治療のはしご(step-up)」の考え方が基本です。これは第6章の診断アプローチと表裏一体であり、治療への反応性そのものが病型分類の根拠になります。
第6章で述べた除去食トライアルは、そのまま長期的な管理食としても機能します。病型に応じて食事戦略の重点は異なります。
抗菌薬は「とりあえず試す」薬ではありません。対象病型を明確にし、漫然とした長期投与を避けることが、耐性菌対策およびディスバイオシス予防の両面から重要です。
免疫抑制療法反応性腸症(IRE、狭義のIBD)に対する治療の中心はグルココルチコイド No.015 犬と猫のステロイド薬 です。T細胞の活性化抑制、炎症性サイトカイン産生の抑制、粘膜への炎症細胞遊走の抑制など、複数の経路で免疫応答を広範に抑制します。
全身性の免疫抑制効果が確立しており、最も広く使われる薬剤です。免疫抑制用量で開始し、臨床症状の改善を確認しながら数週間〜数か月かけて漸減します。急な中止は病態の再燃だけでなく、医原性の副腎機能低下を招く可能性があるため、必ず漸減して中止します。多飲多尿、多食、パンティング、易感染性といった全身性の副作用を飼い主にあらかじめ説明しておくことが、治療脱落を防ぐうえで重要です。
肝臓での初回通過効果が大きく(消化管で吸収された薬剤の大部分が肝臓で代謝される)、全身循環に達する量が少ないため、局所(消化管粘膜)での抗炎症効果を保ちながら全身性の副作用を軽減できるとされる薬剤です。プレドニゾロンの全身性副作用を避けたい症例や、肝疾患を併発している症例などで選択されることがあります。ただし、重度の肝機能低下がある場合は初回通過効果自体が低下し、全身性の曝露が増える可能性がある点には留意します。
ステロイド単独では反応が不十分な場合、副作用のためにステロイドを十分量使用できない場合、あるいは重度のPLEなど予後不良因子を伴う場合には、以下のような薬剤がステロイドに追加、または部分的に置き換える形で使用されます。
低アルブミン血症は、薬物動態にも影響を及ぼします。血漿蛋白との結合率が高い薬剤では、遊離型(薬理活性を持つ型)の割合が相対的に増加し、効果や副作用が増強される可能性があるため、用量設定には注意が必要です。
血栓塞栓症のリスクを踏まえ、重度の低アルブミン血症(特に2.0 g/dL未満)を示すPLE症例では、低用量アスピリンやクロピドグレルなどによる抗血小板療法の併用が検討されます。あわせて、過度な安静や脱水を避け、輸液管理にも注意を払います。
また、重度のPLEでは経口薬の吸収そのものが腸粘膜の機能低下によって不安定になることがあり、症状や血液検査値の推移を見ながら、剤形の変更(注射剤への切り替えなど)を検討する場面もあります。
診断・治療を始めた後こそが本番。反応性の評価と長期管理の考え方を最後に整理する。
治療開始後は、CIBDAI/CCECAIスコアを用いて、同じ基準で症状の推移を追跡します。加えて、体重、血清アルブミン値、必要に応じてコバラミン値を定期的に再評価することで、臨床所見だけでは捉えにくい改善・悪化の傾向を客観的に把握できます。
一般的には、治療開始後2〜4週間を目安に最初の再評価を行い、反応が得られていればステロイドなどの漸減を開始します。反応が乏しい場合は、まず投薬コンプライアンス(飼い主が指示通りに投与できているか)と食事管理の徹底度を確認したうえで、薬剤の変更や追加、診断の再検討(見落とした鑑別疾患がないか)を行います。
免疫抑制療法にも反応しない非反応性腸症(NRE)では、以下のような視点で再評価を行います。
食事反応性・抗菌薬反応性の症例では、多くが長期的に良好な経過をたどります。免疫抑制療法反応性の症例(狭義のIBD)でも、多くはステロイドを漸減しながら低用量での維持、あるいは休薬に至ることが可能です。一方でPLEを伴う重症例は、寛解後も再燃のリスクを念頭に置いた慎重な経過観察が必要です。
犬のIBDは、遺伝的素因・上皮バリア・腸内細菌叢・粘膜免疫という4つの要素が織りなす悪循環として理解することで、なぜ食事療法から始めるのか、なぜ組織学的評価が必要なのか、なぜ薬物治療が段階的に強化されるのかが、一本の筋道としてつながります。目の前の症例が今どの段階にあるのかを意識しながら、本書の各章を診療の地図として役立てていただければ幸いです。